群馬県教委7月定例会議を傍聴して
・「主体的な学び」について
「群馬県教育ビジョン」の普及啓発と理解促進を図るため、県教育長と公立校校長との懇談会が5月から7月にかけて県内各地区で行われたそうです。
そこでは、この教育ビジョン策定に込めた思いが語られ、「子どもたちが主体的に課題を発見し解決する授業への転換」などが示されたということです。これ以外にも「自分で考え、自分で決めて、自分で行動する」「子どもたちが主体性を発揮する場面を意識する」「主体性をより一層育む」などの言葉から、県教委が学校に何を求めようとしているかがわかります。
しかし、この「主体性」ないし「主体的な学び」に類するフレーズが、県教委会議で教育ビジョンや非認知能力育成事業など事ある毎にこれでもかというほど繰り返し使われる様子には、その語義とは正反対に「(自分で考えない県教委の)主体性のなさ」が見え隠れしています。
もちろん、現行の学習指導要領にある「主体的・対話的で深い学び」に拠った一過性の現象にすぎないと考えれば、いちいち気に病む必要もないのでしょう。しかし、「主体的な学び」構築のための取組が全ての学校・教員に強制されるとなると話しが急にきな臭くなります。実際、今回の懇談会で校長から「教職員の共通理解」「特別活動の充実」「課題解決型授業への転換」などの取組例が出され、その情報共有が図られたとのことです。「子どもの主体性育成のための画一的な取組の押しつけ」とは、もはや悪い冗談のようですが、これが学校の直面する現実なのです。
私たちフォーラムでは、「子どもの主体性の尊重」に異論があるわけでは決してありません。ただ、教育施策の主体の県教委が「主体性」という時、その「主体性」の向かう方向や行き着く目標があらかじめ定められ、為政者にとって都合の良い行動だけが子どもに求められるのではないか、ということを危惧するのです。
学校に行かないことを自らの意志で判断した子どもや、校則に不満を持ちそれを守らないことにした子どもの「主体性」は認められず、社会のためにエージェンシー(*)を発揮する子どもの「主体性」ばかりが賞賛されるのでは、多様な価値観の中で自らの「主体性」に従い生きようとする子どもたちにとってあまりにも理不尽です。
そもそも、「主体性」の概念は抽象的で曖昧ですが、個人の尊厳と深く結びついた言葉です。しかし、教育ビジョンに描かれた「主体的な学び」とは、自分や社会をよくするために、自分で考え、自分で決めて、自分で行動しましょう、という意識高揚のムードを演出する薄っぺらなかけ声のようです。かけ声ならば、県教委会議での連呼もある程度合点がいきます。しかし、これまでも県教委が様々な規範で子どもの行動を規制し、人事評価で教員の内心までも支配し続けていながら、その一方で、流行り言葉のようなキャッチフレーズを振りまくことで、山積する学校現場の課題を自分たちで何とかさせようと迫っているのならば、何ともむしの良い話しではないでしょうか。
*エージェンシー:本来「仲介・斡旋・取次店」を意味するが、OECDでは「変革を起こすために目標を設定し、振り返りながら責任ある行動をとる能力」と定義し、群馬県は「自分と社会をより良くしようと願う意志や原動力」との独自解釈をする。
・部活動改革について
中高生に呼びかけた部活動改革ワークショップが開かれたことが報告されました。
部活動地域移行が遅々として進まない中で企画された中高生への意見聴取の機会ですが、夏休み直前の土曜日開催で参加人数も20人(全県の中高生に呼びかけ80人募集)で、出された意見も「専門的な指導・他校との交流・活動費の補助・施設の充実を求める」という、部活動改革にしてはごく平凡な内容でした。
全国には平日も含めた部活動の抜本的見直しを図ろうとする自治体もありますが、群馬県では実態把握すらままならない状況が続いています。
他県から専門家を呼びGメッセでの一大イベントを企画した県教委にとって、生徒に意見を聞いたという既成事実だけが必要だったのかもしれません。しかし、一方の当事者である教員への意見聴取の機会がこれまでにないことがとても不思議です。教員の多忙化解消がこの問題の発端である以上、教員への意見聴取や精確な実態調査は、県教委にとって最も必要なことなのではないでしょうか。 (以上)
2024.7.30