群馬県教委7月会議を傍聴して
・今回の会議では、総合教育会議と学校訪問等に参加した各教育委員の報告が多くを占めましたが、そのうち小島委員の「今の教育を受けた人が社会でどう受け入れられるか」について述べた発言に注目しました。この発言内容は近いうちに教育委員会のウェブページの会議録でも公表されることと思いますが、その概略は「自発的に自分の意見を言う今の教育を受けた人が社会に出たとき、それを虚心坦懐に受け入れることのできる組織を作っていかないと日本の将来が危ぶまれる」というものでした。委員自身の過去の経験も踏まえ、日本の「昔の教育」が持つ欠点を示唆していると同時に、「今の教育」が社会のコンセンサスも得ぬまま導入される現状への告発とも読めます。
新人が上司に直言できるような柔軟な組織の構築が急務、とは以前から繰り返し言われてきたことですが、それは日本の社会がいつになっても全くそうなっていないことの証左でもあります。そして、ドラッカーのマネジメント論がもてはやされる現在でさえ、かつて中根千枝が指摘した「タテ社会の人間関係」が隅々にまで張り巡らされている日本社会の特異点でもあります。
委員がぐんま国際アカデミーで見た「今の教育」がどのようなものかは想像するしかありませんが、国際バカロレアのプログラムに則った学習スタイルと、文科省が現行学習指導要領で提示する学力観や学びのかたちがどう結びつき、どう結びつかないかを精査する必要があります。
また、「今の教育」とひとまとめにできるほど単純ではないにしても「自分の頭でものを考え表現する」という万古不易の教育目標が、優先する学習課題として近年社会にクローズアップされている風潮は、歓迎すべき現象だと考えます。
最近どこの自治体でも国際バカロレア認定校の設置に前のめりになっているようですが、ごく少数の対象者への恵まれた教育環境の提供は私学であるならいざ知らず、そもそも公教育の趣旨とは全く相反するものであり、自治体が公金を用いて教育格差を助長することは断じて許されません。
さらには、経産省による一部の人材優遇とその他大勢の切り捨て政策である「(産業界で使える)人材育成」の流れがSociety5.0などの符牒じみた用語によって鼓吹され、先の文科省による学力観などと渾然一体となって学校現場に流れ込み、とんでもない混乱を引き起こしていることを指摘する人はそれほど多くありません。
小島委員は受け入れ側の体制が整わないことを危惧しますが、さらに深刻なのは、新味を滲ませた教育施策が次々に投入される教育現場の惨状と、そこを巣立ってゆく若者たちの心理に絶対解の見えない不安感と旧弊な社会に対する不信感ばかりが募ることではないでしょうか。小島発言を受けて教育長は「学校が変われば社会も変わるし、その逆もある」と述べ、学校と社会の交流による事態打開の道を示しますが、次々投入される教育施策を闇雲に受け入れるしかない学校現場にとって、子どもたちが将来入る組織へ配慮をする余裕は全くありませんし、相互交流によって解消するレベルの問題でもありません。それこそ、教育委員会自身が中央省庁への意見具申や商工会議等への働きかけを自らの頭で考えて主体的・対話的に行い、その存在意義を大いに発揮すべきではないでしょうか。
・沼田委員より「総合教育会議」の本来の趣旨やあり方に照らした場合の現状に対する疑問が示されました。教育委員としての自身の役割に対する疑問と併せて、教育委員会制度全体への勇気ある提言と評価します。
確かに、年一回程度の学校訪問・意見交流だけでは「教育、学術および文化の振興に関する総合的な施策の大綱の策定」などを含む協議をすることはとうてい不可能でしょうし、知事によるパフォーマンストークばかりが目立つ今回の会議の議事録からもそれはうかがえます。さらに、月一回の定例県教委会議では、傍聴する私たちから見ても、充分に会議として機能しているとは言えません。今回のこのような教育委員自らの真摯な省察は、教委事務局の前例と範例にとらわれた報告と曖昧で不充分な審議に終始する県教委会議を変容させ、さらには教育委員会自体のリノベーションを促すものとなるのではないかと大いに期待しています。
(以上)
2023.7.31